紀元前185年
世紀 | 前3世紀 - 前2世紀 - 前1世紀 |
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十年紀 | 前200年代 前190年代 前180年代 前170年代 前160年代 |
年 | 前188年 前187年 前186年 紀元前185年 前184年 前183年 前182年 |
紀元前185年(きげんぜんひゃくはちじゅうごねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元569年、アッピウス・クラウディウス・プルケルとマルクス・センプロニウス・トゥディタヌスの年[1]。
他の紀年法
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凡例
- 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。
- 「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。
- 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。
- 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。
- 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。
- 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。
- 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。
- 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。
できごと
共和政ローマ
- ルキウス・マンリウス・アキディヌス・フルウィアヌスが小凱旋式を挙行した[2]。
- クィントゥス・カエキリウス・メテッルス、マルクス・バエビウス・タンピルス、ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨルからなる使節団が、マケドニア王国のピリッポス5世と周辺諸国の調整のため派遣された[2]。
エジプト
- Ankhmakisがプトレマイオス朝の将軍Conanusに捉えられ、エジプト北部と南部の内戦が終結した。
インド
誕生
「Category:紀元前185年生」も参照
- スキピオ・アエミリアヌス:共和政ローマの政務官(紀元前129年没)
- パナイティオス:ギリシアの哲学者(紀元前110年没)
死去
「Category:紀元前185年没」も参照
- ブリハドラタ:マウリヤ朝の王(紀元前197年生)
脚注
注釈
出典
[脚注の使い方]
参考文献
- T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association
関連項目
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