紀元前183年
世紀 | 前3世紀 - 前2世紀 - 前1世紀 |
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十年紀 | 前200年代 前190年代 前180年代 前170年代 前160年代 |
年 | 前186年 前185年 前184年 紀元前183年 前182年 前181年 前180年 |
紀元前183年(きげんぜん183ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元571年、マルクス・クラウディウス・マルケッルスとクィントゥス・ファビウス・ラベオの年[1]。
他の紀年法
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凡例
- 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。
- 「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。
- 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。
- 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。
- 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。
- 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。
- 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。
- 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。
できごと
共和政ローマ
- ローマ市にギリシア諸国からの使者がやってきて、元老院は彼らから事情を聴取した後、クィントゥス・マルキウス・ピリップス (紀元前186年の執政官)を派遣し、紛争の解決に当らせた[2]。
- ムティナ、アクイレイア、パルマ、エトルリアのサトゥルニアにローマの植民市ができた[3]。
- スキピオ・アフリカヌスがカンパニア州のリテルヌムで死去した。
- ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスがビテュニアに派遣され、ペルガモンとの戦争とカルタゴの元将軍ハンニバルの受け入れに抗議した[3]。プルシアス1世がローマの要求に従いだまそうとしているのを知ったハンニバルはLibyssaの村で服毒自殺した。
ギリシア
誕生
「Category:紀元前183年生」も参照
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ、ローマの執政官(+ 紀元前132年)
死去
「Category:紀元前183年没」も参照
- スキピオ・アフリカヌス、ローマの政務官(* 紀元前236年)
- メガロポリスのフィロポイメン、ギリシアの政治家、軍人(* 紀元前253年)
- ハンニバル、カルタゴの将軍(* 紀元前247年)
脚注
注釈
出典
[脚注の使い方]
参考文献
- T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、紀元前183年に関連するカテゴリがあります。