紀元前187年
世紀 | 前3世紀 - 前2世紀 - 前1世紀 |
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十年紀 | 前200年代 前190年代 前180年代 前170年代 前160年代 |
年 | 前190年 前189年 前188年 紀元前187年 前186年 前185年 前184年 |
紀元前187年(きげんぜん187ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元567年、マルクス・アエミリウス・レピドゥスとガイウス・フラミニウスが執政官の年[1]。
他の紀年法
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凡例
- 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。
- 「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。
- 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。
- 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。
- 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。
- 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。
- 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。
- 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。
できごと
セレウコス朝
共和政ローマ
- 執政官レピドゥスはアエミリア街道を建設した[2]。
- 執政官フラミニウスはボノニアからアッレティウムまでの街道を建設した[2]。
- 外国人担当プラエトル、クィントゥス・テレンティウス・クッレオが12000人のラテン人をローマ市から追放した[2]。
- 護民官クィントゥス・ペティッリウス・スプリヌスらが、アンティオコスからの収賄容疑でルキウス・コルネリウス・スキピオ・アシアティクスの関係者を調査する提案を行った[3](Lex Petillia de pecunia regis Antiochi[4])。
- ギリシア担当プロコンスル(前執政官)マルクス・フルウィウス・ノビリオル (紀元前189年の執政官)が帰国して凱旋式を挙行し、戦利品でヘーラクレース神殿とムーサ神殿を奉献した[3]。
- プロコンスルのグナエウス・マンリウス・ウルソが帰国し、凱旋式を挙行した[3]。
カルタゴ
- 紀元前201年のローマとの和約に基づく賠償金の残額を一括で支払うことを提案したが、ローマ側に拒否された[5]。
エジプト
誕生
「Category:紀元前187年生」も参照
死去
「Category:紀元前187年没」も参照
- アンティオコス3世:セレウコス朝の王(紀元前241年生)
脚注
注釈
出典
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参考文献
- Giovanni Rotondi (1912). Leges publicae populi romani. Società Editrice Libraria
- T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association
- テオドール・モムゼン 著、長谷川博隆 訳『ローマの歴史 II 地中海世界の覇者へ』名古屋大学出版会、2005年。ISBN 978-4-8158-0506-7。
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、紀元前187年に関連するカテゴリがあります。