長屋吉親

 
凡例
長屋吉親
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天文13年7月28日(1544年8月16日
官位 縫殿允
主君 毛利元就
氏族 大江姓毛利氏庶流長屋氏
父母 父:長屋宗親
兄弟 吉親吉忠
井上光兼の娘
元忠、女(桜井就綱室)
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長屋 吉親(ながや よしちか)は、戦国時代の武将毛利氏家臣。

出自

長屋氏は、毛利元春の四男で安芸国高田郡中馬[注釈 1]を領した中馬忠広の孫・泰親を祖とし、安芸国高田郡長屋の槇ヶ城に在城したことで、長屋を名字とした。泰親は毛利煕元の娘を妻としたが嗣子が無かったため、弟の教親が養子として家督を継いだ。教親の子が、吉親の父の長屋宗親である。

生涯

毛利氏の庶流である長屋氏の当主・長屋宗親の長男として生まれ、弟の吉忠と共に毛利氏に仕えた。

享禄5年(1532年)に毛利氏の家臣団32名が、互いの利害調整を毛利元就に要請した起請文において、吉親は12番目に「長屋縫殿允吉親」と署名している[注釈 2][1]

天文13年(1544年)7月、尼子晴久尼子国久とその子である誠久敬久を総大将として備後国に侵攻し三吉広高を攻撃した。元就は福原貞俊と児玉就忠を大将とし、粟屋元堅、粟屋元良、井上光利福原元勝、長屋吉親ら1000余を援軍として派遣。備後国の国人である上山広信もこれに加わった。

しかし、同年7月28日、備後国双三郡布野において牛尾幸清や平野又右衛門らが率いる尼子軍と合戦するも大敗(布野崩れ)。この敗戦で福原貞俊と児玉就忠は重傷を負い、粟屋元堅、粟屋元良、井上光利、福原元勝、荘俊正、上山広信らは戦死した。そして吉親もこの戦いで壮烈な戦死を遂げている[2]

脚注

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注釈

  1. ^ 現在の広島県安芸高田市吉田町中馬。
  2. ^ この時連署状に署名した32名は、署名順に福原広俊、志道広良桂元澄福原元勝坂広昌(元貞)、山中元孝、光永元隆北就勝井上元吉粟屋元秀井上就在長屋吉親井上元盛井上元貞国司有相井上有景井上元続井上俊秀井上良在井上俊久国司就連粟屋元親粟屋元国赤川就秀、飯田広親、赤川元助(元保)佐々部祐賢、南方親州、内藤元康秋山親吉、三田元実、井原元師。

出典

  1. ^ 『毛利家文書』第396号、享禄5年7月13日付 福原広俊以下家臣連署起請文。
  2. ^ 『毛利元就卿伝』p.126-129。

参考文献