哀公 (秦)

哀公
第14代公
王朝
在位期間 前536年 - 前501年
都城 雍城
諡号 哀公
生年 不詳
没年 哀公36年(前501年
景公
陵墓 車里北

哀公(あいこう)は、の第14代公。景公の子。

生涯

景公40年(前537年)秋、景公が薨去したため、後を継いで秦公となる。

哀公14年(前523年)、楚の平王が太子建(中国語版)のために秦の公女を求めてきた。哀公の娘伯嬴が楚へ嫁ぐとその美貌のため、平王が自分の妻とした。

哀公15年(前522年)、晋で内紛が起き(六卿の乱)、外にまで手が回らくなったため、しばらく晋と秦の間に争いが起きることはなかった。

哀公31年(前506年)11月、呉王闔閭伍子胥とともに楚の都である(えい)[1]に攻め入ったため、楚の昭王は随(ずい)[2]へ逃れ、秦に救援を要請してきた[3]。そこで秦は兵車500乗を送って楚を援助し、呉軍を破った。これにより楚の昭王は郢に戻ることができた。

哀公36年(前501年)秋、薨去したが、太子夷公(中国語版)は早くに亡くなっていたので、夷公の子が立って秦公(恵公)となった。

脚注

  1. ^ 現在の湖北省荊州市荊州区
  2. ^ 現在の湖北省随州市曽都区
  3. ^ この時、楚の大夫である申包胥が泣きついて来て、一杯の湯さえも口にせず、7日間過ごした。そこで哀公は『詩経』国風の秦風「無衣」の詩を歌ってやったという。

参考資料

(前536年 - 前501年)
  • 非子 前900-前858
  • 秦侯 前857-前848
  • 公伯 前847-前845
  • 秦仲 前844-前822
  • 荘公 前821-前778
  • 襄公 前777-前766
  • 文公 前765-前716
  • 憲公 前715-前704
  • 出子 前703-前698
  • 武公 前697-前678
  • 徳公 前677-前676
  • 宣公 前675-前664
  • 成公 前663-前660
  • 穆公 前659-前621
  • 康公 前620-前609
  • 共公 前608-前604
  • 桓公 前603-前577
  • 景公 前576-前537
  • 哀公 前536-前501
  • 恵公 前500-前491
  • 悼公 前490-前477
  • 厲共公 前476-前443
  • 躁公 前442-前429
  • 懐公 前428-前425
  • 霊公 前424-前415
  • 簡公 前414-前400
  • 恵公 前399-前387
  • 出公 前386-前385
  • 献公 前384-前362
  • 孝公 前361-前338
皇帝

子嬰 前207

カテゴリ カテゴリ