名古屋市立本宿郊外学園

名古屋市立本宿郊外学園
国公私立の別 公立学校
設置者 名古屋市
設立年月日 1946年(昭和21年)2月11日
閉校年月日 1966年(昭和41年)12月31日[1]
共学・別学 男女共学
所在地 444-3504
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名古屋市立本宿郊外学園(なごやしりつもとじゅくこうがいがくえん)は、愛知県岡崎市上衣文町に所在した名古屋市立の教育機関。

沿革

開設から廃止まで

  • 1944年昭和19年)度 - 北設楽郡田口町において、陸海軍人遺児のための施設である「山の家」を設置[2]
  • 1946年(昭和21年)
    • 1月31日 - 名古屋市立本宿郊外学園職員に対し、辞令発令[2]
    • 2月11日 - 額田郡本宿村大字上衣文字神伍鞍30番地の渭信寺境内および建物を借用し、文部省による戦災孤児学童合宿教育所として学園設置[2]。「山の家」が閉鎖され、入居者および機能が移転する[2]。寺は戦時中には名古屋市の疎開児童を受け入れていたものの、帰る家を失った児童が多くいたことが施設開設の事情としてあったという[3]
    • 12月25日 - 名古屋市により、児童保護施設として指定[2]
  • 1947年(昭和22年)2月20日 - 愛知県より、社会事業施設として指定[2]
  • 1948年(昭和23年)4月1日 - 教員および児童について栄小学校、生徒について前津中学校に在籍の形が取られる[2]。その前年2月の段階で、学籍が37小学校・4高等小学校に渡っていた[4]
  • 1949年(昭和24年)7月1日 - 本宿村大字上衣文字猿田123番地において新校舎が竣工する[2]。宿舎は渭信寺境内に存置[2]
  • 1950年(昭和25年)4月1日 - 児童福祉法(第27条第1項第3号[5])による養護施設となる[2]。戦災孤児に限らず、家庭の事情で孤児となった児童も受け入れる[3]
  • 1952年(昭和27年)7月19日 - 宿舎が校舎隣接地に移転[2]
  • 1955年(昭和30年)
    • 3月31日 - 名古屋市立横須賀郊外学園との間で生徒と児童を交換し、入居者が全て中学生となる[1]
    • 4月1日 - 名古屋市立本宿郊外中学校が独立する[1]。これは従来、在籍児童および職員がそれぞれ各地の名古屋市立学校に在籍したままになっており、卒業式の前日に職員が在籍校を回って卒業証書を集める必要があるなどの問題があったために設置されたものである[6]
  • 1958年(昭和33年)12月2日 - トヨタ自動車より朝日新聞社会事業団を通じて、トヨタ・パブリカが寄贈される[1]
  • 1966年(昭和41年)

廃止後

1967年夏に開設された社会教育施設「岡崎市働く者の山の家」
渭信寺境内に建立された「名古屋市立本宿郊外学園の碑」
  • 1967年(昭和42年)夏 - 岡崎市が名古屋市から建物を譲り受け、社会教育施設「岡崎市働く者の山の家」として開設した[7][8][9]。校舎2棟、宿舎2棟、食堂1棟。宿泊室は13室で、大人70人、子ども140人が宿泊可能。戸外にはソフトボール、バレーボール用の運動場、キャンプ地などがあった[9]
  • 1985年(昭和60年)4月 - 「岡崎市働く者の山の家」内に、不登校の小中学生の相談指導機関である「ハートピア岡崎」を開設[10][11][12]。校舎は「ハートピア岡崎」として、寮舎は「働く者の山の家」として使用された[13]
  • 1990年(平成2年)4月 - 文部省が適応指導教室の事業を開始[14][15][16]。ハートピア岡崎もその中に含まれることとなった。
  • 1993年(平成5年)12月31日 - 利用者数の減少などを理由として「岡崎市働く者の山の家」が廃止される[7]
  • 1997年(平成9年)8月15日 - 卒業生らの寄附金により、旧「山の家」が所在した渭信寺境内に記念碑が建立され、除幕式が行われる[17]
  • 2010年(平成22年)1月4日 - 岡崎市は竜美北の旧竜美丘健診センターを改修して、岡崎市教育相談センターを設立した。これに伴い「ハートピア岡崎」は同センターに移った[18][19][20]

歴代学園長

  • 初代 - 榎田里司(1946年1月31日~)[2]
  • 2代 - 深見勇夫(1947年9月1日~)[2]
  • 3代 - 峰澤啓三(1954年6月1日~、1955年4月1日より初代名古屋市立本宿郊外中学校長を兼務)[1]
  • 4代 - 牛田重治(1958年10月1日~)[1]
  • 5代 - 梅本孝之(1964年6月1日~)[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j 名古屋市立緑丘小学校 1993, p. 135.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 名古屋市立緑丘小学校 1993, p. 134.
  3. ^ a b 「戦災孤児を生んだ人間は愚かだった 名古屋市立本宿郊外学園 岡崎の跡地に記念碑 思い出したくない人も 心の傷、今も深く」『中日新聞夕刊』中日新聞社、1997年8月13日、11面。
  4. ^ 遠藤由美 1987, p. 37.
  5. ^ 愛知県教育委員会 2006, p. 525.
  6. ^ 名古屋市立横須賀郊外学園 1966, p. 20.
  7. ^ a b “岡崎市議会 平成5年12月 定例会 12月14日-29号”. 岡崎市会議録検索システム. 2024年8月19日閲覧。
  8. ^ “岡崎市議会 平成5年3月 定例会 03月03日-02号”. 岡崎市会議録検索システム. 2024年8月19日閲覧。
  9. ^ a b “市政だより No.149”. 岡崎市役所 (1967年8月1日). 2024年3月5日閲覧。
  10. ^ “『月報 岡崎の教育』1986年2月号”. 岡崎市教育ポータルサイト OKリンク. 岡崎市教育委員会. 2024年8月19日閲覧。
  11. ^ “岡崎市議会 昭和60年12月 定例会 12月05日-17号”. 岡崎市会議録検索システム. 2024年8月19日閲覧。
  12. ^ “岡崎市議会 平成8年3月 定例会 03月04日-02号”. 岡崎市会議録検索システム. 2024年8月19日閲覧。
  13. ^ 名古屋市立緑丘小学校 1993, p. 129.
  14. ^ “生徒指導関係略年表について”. 文部科学省. 2024年8月19日閲覧。
  15. ^ “平成2年2月定例会(第3号) 本文 1990-02-27”. 愛知県議会 会議録の閲覧と検索. 2024年8月19日閲覧。
  16. ^ “第118回国会 参議院 文教委員会 第2号 平成2年4月17日”. 国会会議録検索システム. 2024年8月23日閲覧。
  17. ^ 「生きた「あかし」記念碑に込めて 岡崎の戦災孤児施設跡 名古屋市立本宿郊外学園 卒業生ら集い除幕式」『中日新聞朝刊西三河版』中日新聞社、1997年8月16日、14面。
  18. ^ “市政だより おかざき No.1134”. 岡崎市役所. p. 3 (2009年12月15日). 2024年3月5日閲覧。
  19. ^ “岡崎市議会 平成21年3月 定例会 03月05日-04号”. 岡崎市会議録検索システム. 2024年8月19日閲覧。
  20. ^ “岡崎市議会 平成22年12月 定例会 12月02日-22号”. 岡崎市会議録検索システム. 2024年8月19日閲覧。

参考文献

  • 愛知県小中学校長会『愛知県小中学校誌』愛知県教育振興会、1957年6月12日、30頁。 
  • 名古屋市立横須賀郊外学園、名古屋市立横須賀郊外小学校『名古屋市立横須賀郊外学園 小学校の記録』名古屋市立横須賀郊外学園・名古屋市立横須賀郊外小学校、1966年11月20日。 
  • 遠藤由美(著)、『教育論叢』編集委員会(編)「戦後日本養護問題史研究その2―合宿教育所の設置過程―」『教育論叢』第30号、1987年、25-40頁。 
  • 名古屋市立緑丘小学校、名古屋市立緑丘中学校『緑丘と郊外学園』名古屋市立緑丘小学校・名古屋市立緑丘中学校、1993年3月31日。 
  • 愛知県教育委員会『愛知県教育史 第5巻』愛知県教育委員会、2006年3月31日。全国書誌番号:21065306。 

関連項目

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愛知県の旗

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