仇首王
仇首王 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 구수왕, 귀수왕 |
漢字: | 仇首王, 貴須王 |
発音: | クスワン、クィスワン |
日本語読み: | きゅうしゅおう、きすおう |
ローマ字: | Gusu-wang, Gwisu-wang |
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仇首王(きゅうしゅおう、生年未詳 - 234年)は百済の第6代の王(在位:214年 - 234年)であり、先代の肖古王の長子。『三国史記』百済本紀・仇首王紀の分注や『三国遺事』王暦では貴須王の別名も記される。214年10月に先王の死去により王位についた。諱・諡は伝わっていない。
子に沙伴王、比流王がいるが、第7代沙伴王は234年に即位、第11代比流王は304年に即位したとされている。兄弟が70年間の差を開けて即位したとは考えにくい。
治世
蓋婁王・肖古王に引き続き、新羅・靺鞨との交戦が続いた。新羅へは218年7月に攻め入って獐山城(慶尚北道慶山市)を包囲したが、新羅王(奈解尼師今)の反撃を受け、敗退した。222年10月には牛頭城(江原特別自治道春川市)に侵入して略奪し、迎え撃つ伊伐飡(新羅の1等官)の忠萱を熊谷(江原特別自治道春川市東南の甘渓[1])で大破した。224年7月には一吉飡(7等官)の連珍が侵入してき、烽山(慶尚北道栄州市[2])で迎え撃ったが敗北を喫した。
靺鞨に対しては、216年8月に赤峴城まで侵入されて包囲されたが、城主は防戦に努めて靺鞨兵が引き上げたところを追撃し、沙道城の付近で大いに戦果をあげた。その後も220年10月に北部辺境に侵入されたのを撃退したが、229年11月に牛谷城周辺に侵入されたときには、精兵300を派遣したが、靺鞨軍の伏兵に挟撃され大敗した。
在位21年にして234年に死去した。埋葬地は伝わっていない。
考証
『三国史記』 では、肖古王は近肖古に、仇首王は近仇首に重って二重になっている、と指摘されている[3]。すなわち、『三国史記』の肖古王は即位年は近肖古と同じ丙午で、在位は166年から214年、仇首王の在位は214年から234年である。近肖古・近仇首は、『古事記』の照古王、『日本書紀』及び『日本書紀』注百済系史書の肖古、貴須に紀年の上で一致する。166年から234年は、『後漢書』『魏志』の時代であるが、それらの漢籍ではその時代に百済は影も形もない[3]。この近肖古、近仇首は後世のでっちあげで、肖古、仇首をそれぞれ近肖古、近仇首とし、その前に肖古、仇首を置く事で二倍に水増しているのであり、紀元前37年にはじまる『三国史記』の百済王譜のうち、後世の加上の人物となる[3]。
脚注
参考文献
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温祚王前18-28 / 多婁王28-77 / 己婁王77-128 / 蓋婁王128-166 / 肖古王166-214 / 仇首王214-234 / 沙伴王234 / 古尓王234-286 / 責稽王286-298 / 汾西王298-304 / 比流王304-344 / 契王344-346 / 近肖古王346-375 / 近仇首王375-384 / 枕流王384-385 / 辰斯王385-392 / 阿莘王392-405 / 腆支王405-414 / 久尓辛王414-429 / 毗有王429-455 / 蓋鹵王455-475 / 文周王475-477 / 三斤王477-479 / 東城王479-501 / 武寧王502-523 / 聖王523-554 / 威徳王554-598 / 恵王598-599 / 法王599-600 / 武王600-641 / 義慈王641-660 | |
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