ラファエル・エルナンデス
ラファエル・エルナンデス Rafael Hernández | |
---|---|
基本情報 | |
出生名 | ラファエル・エルナンデス・マリン Rafael Hernández Marín |
生誕 | 1892年10月24日 |
出身地 | プエルトリコ、アグアディヤ(英語版) |
死没 | (1965-12-11) 1965年12月11日(73歳没) プエルトリコ、サンフアン |
ジャンル | ラテン音楽、ワラチャ、ラメント |
職業 | 作曲家 |
ラファエル・エルナンデス・マリン(西: Rafael Hernández Marín、1892年10月24日 - 1965年12月11日)は、プエルトリコの作曲家。日本においては、エルナンデスの作曲した『エル・クンバンチェロ』 (El Cumbanchero)が高校野球の応援曲の定番曲の一つとなっている[1][2]。
生涯
1892年10月24日にプエルトリコのアグアディヤ(英語版)の貧しい家庭に生まれる。幼い頃に葉巻きたばこの作り方を教えられ、細やかながら生活の糧としていた。長じるにあたって音楽への興味を抱き、12歳の時に両親に頼んでサンフアンの音楽学校で学ぶことになる。14歳の時にはサンファンに住居を移し、市立オーケストラに参加して演奏するようになった。結婚し、1913年には最初の子供アントニオを授かっている。
アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦した1917年、エルナンデスはノースカロライナ州でミュージシャンとして働いていた。ジェームス・リーズ・ヨーロッパ(英語版)は、エルナンデスと弟をはじめとするプエルトリコ人16人の計18人を雇い、アメリカ陸軍第369歩兵連隊(英語版)へ軍楽隊として入隊させ、ヨーロッパでの演奏行を行わせた。この功績から、エルナンデスはフランスの戦功章クロア・ド・ゲール(英語版)を授けられる。
第一次世界大戦終戦後、除隊したエルナンデスは1920年代になってニューヨーク市に居を構え、トリオ・ボリンカーノ(Trio Borincano)を結成する。トリオ・ボリンカーノには同じプエルトリコ出身の作曲家ペドロ・フローレス(英語版)も加わった。
代表曲
- ラメント・ボリンカーノ (Lamento Borincano) - 1930年
- アレリのつぼみ (Capullito de Alhelí) - 1931年
- シレンシオ(英語版) (Silencio) - 1932年
- エル・クンバンチェロ (El Cumbanchero) - 1943年
- プレシオーサ(英語版) (Preciosa) - 1948年
出典・脚注
[脚注の使い方]
関連項目
- ラファエル・エルナンデス空港(英語版) - アグアディヤ(英語版)にある空港。ラファエル・エルナンデスに因んで名付けられた。
- 表示
- 編集
エル・クンバンチェロに関するカテゴリ:
- 楽曲 え
- 1943年の楽曲
- プエルトリコの音楽
- ラテン音楽の楽曲
- 応援歌
- NHK紅白歌合戦歌唱楽曲
- ニュー・サウンズ・イン・ブラス