ホセ・マヌエル・フエンテ

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はフエンテ第二姓(母方の姓)はラバンデスです。

ホセ・マヌエル・フエンテ・ラバンデラ(José Manuel Fuente Lavandera、1945年9月30日-1996年7月18日)は、スペインオビエド出身の元自転車競技選手。

経歴

1969年にプロ選手となる。厳しい山岳コースにおいては決まってアタックをかけたという、山岳スペシャリストとして名を馳せた。

1971年ジロ・デ・イタリア山岳賞を受賞。

1972年ブエルタ・ア・エスパーニャでは、ミゲル・マリア・ラサ、アウグスティン・タマメスといった山岳巧者を徐々に引き離して総合優勝。同年のジロ・デ・イタリアでは、エディ・メルクスと序盤から激しく競り合った。総合成績はメルクスに次いで2位に終わったものの、山岳賞争いではメルクスを退け、2年連続で同レースの山岳賞を受賞。

1973年ジロの山岳賞を3年連続で獲得。ツール・ド・フランスでは、総合優勝のルイス・オカーニャの独擅場となったが、アルプスの山岳越えステージではただ一人、オカーニャに食い下がった。また総合でも3位に食い込んだ。またツール・ド・スイスでは総合優勝を果たしている。

1974年のブエルタでは、ポルトガルジョアキン・アゴスティーニョ、ラサ、オカーニャと終盤まで大激戦を演じたが、第10ステージで総合首位に立って何とかそのまま押し切り、2度目の総合優勝を果たした。ちなみに総合2位のアゴスティーニョとはわずか11秒差だった。またジロでは4年連続の山岳賞を獲得した。

しかしながら、翌1975年以降、腎臓に難を抱えるようになったことから、1976年限りで引退を余儀なくされた。1988年、クラスチームの監督に就任するも、持病の腎臓病が原因でわずか1シーズンで退任。その後まもなくして長い闘病生活を強いられるようになったが、1996年7月18日、50歳でその生涯を閉じた。

外部リンク

  • ホセ・マヌエル・フエンテ - サイクリングアーカイヴス(英語)
   

1990  イタリアの旗  マルコ・ジョヴァンネッティ
1991  スペインの旗  メルチョル・マウリ
1992  スイスの旗  トニー・ロミンゲル
1993  スイスの旗  トニー・ロミンゲル
1994  スイスの旗  トニー・ロミンゲル
1995  フランスの旗  ローラン・ジャラベール
1996  スイスの旗  アレックス・ツェーレ
1997  スイスの旗  アレックス・ツェーレ
1998  スペインの旗  アブラハム・オラーノ
1999  ドイツの旗  ヤン・ウルリッヒ

2000  スペインの旗  ロベルト・エラス
2001  スペインの旗  アンヘル・カセロ
2002  スペインの旗  アイトール・ゴンサレス
2003  スペインの旗  ロベルト・エラス
2004  スペインの旗  ロベルト・エラス
2005  スペインの旗  ロベルト・エラス
2006  カザフスタンの旗  アレクサンドル・ヴィノクロフ
2007  ロシアの旗  デニス・メンショフ
2008  スペインの旗  アルベルト・コンタドール
2009  スペインの旗  アレハンドロ・バルベルデ