テフェリ・バンテ
テフェリ・バンテ ተፈሪ በንቲ | |
テフェリ・バンテ(写真中央) | |
任期 | 1974年11月28日 – 1977年2月3日 |
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第一副議長 第二副議長 | メンギスツ・ハイレ・マリアム アトナフ・アバテ(英語版) |
国王 | アムハ・セラシエ1世[注 1] |
出生 | (1921-10-11) 1921年10月11日 エチオピア帝国 アディスアベバ |
死去 | (1977-02-03) 1977年2月3日(55歳没) 社会主義エチオピア アディスアベバ |
政党 | 無所属 |
宗教 | エチオピア正教会 |
軍歴 | |
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所属組織 | エチオピア陸軍(英語版) |
軍歴 | 1941年 - 1977年 |
最終階級 | 少将 |
戦闘 | エリトリア独立戦争 |
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テフェリ・バンテ(アムハラ語: ተፈሪ በንቲ, ラテン文字転写: Tafari Benti, 1921年10月11日 - 1977年2月3日[1])は、エチオピアの政治家、軍人。臨時軍事行政評議会 (PMAC) 議長。軍隊の階級は陸軍少将[2]。
人物
1974年、エチオピアの皇帝・ハイレ・セラシエ1世をクーデターで廃位したあと、9月13日、国家元首に就任した。実権を握っていたPMAC議長アマン・アンドム中将が殺害された後11月28日にPMAC議長に就任したが[2]、実権は軍部調整委員会を掌握していたメンギスツ・ハイレ・マリアムが握っていた。1977年2月3日にアスラト・デスタ陸軍中佐、ヒルイ・ハイレ・セラシエ陸軍中佐等と共に粛清(処刑)された。
脚注
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注釈
出典
- ^ 佐藤章. “アフリカの「統治者」一覧(資料)” (PDF). アフリカの「個人支配」再考. ジェトロ・アジア経済研究所. 2009年5月21日閲覧。
- ^ a b ラウル・バルデス・ビボ(後藤政子訳)『エチオピアの知られざる革命』恒文社、1978年11月、pp200-204
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、テフェリ・バンテに関連するカテゴリがあります。
公職 | ||
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先代 メンギスツ・ハイレ・マリアム (代行) | 臨時軍事行政評議会議長 第2代:1974年 – 1977年 | 次代 メンギスツ・ハイレ・マリアム |
エチオピア大統領 | |
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エチオピア臨時軍事行政評議会議長 | アマン・アンドム1974 / メンギスツ・ハイレ・マリアム1974 / テフェリ・バンテ1974-1977 / メンギスツ・ハイレ・マリアム1977-1987 |
エチオピア人民民主共和国大統領 | メンギスツ・ハイレ・マリアム1987-1991 / タスファレ・ゲブレ・キダン1991 |
エチオピア暫定政権 | メレス・ゼナウィ(暫定)1991-1995 |
エチオピア連邦民主共和国大統領 | ネガソ・ギダダ1995-2001 / ギルマ・ウォルドギオルギス2001-2013 / ムラトゥ・テショメ2013-2018 / サーレワーク・ゼウデ2018- |
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