ジャン (ギーズ公)

ジャン
Jean
オルレアン家

全名
一覧参照
  • Jean Pierre Clément Marie
    ジャン・ピエール・クレマン・マリー
称号 ギーズ公
出生 (1874-09-04) 1874年9月4日
フランスの旗 フランス共和国パリ
死去 (1940-08-25) 1940年8月25日(65歳没)
スペイン保護領モロッコララーチェ
配偶者 イザベル・ドルレアン
子女
一覧参照
  • イザベル
    フランソワーズ
    アンヌ
    アンリ
父親 ロベール・ドルレアン
母親 フランソワーズ・ドルレアン
宗教 キリスト教カトリック
テンプレートを表示

ジャン・ドルレアンフランス語: Jean d'Orléans, 1874年9月4日 - 1940年8月25日)は、フランスの旧王家オルレアン家の家長。ギーズ公フランス語: Duc de Guise)の儀礼称号で呼ばれた。フランス人の王ルイ=フィリップ1世の曾孫にあたる。

生涯

幼少期のジャンと姉マルグリット(ガブリエル・フェリエール画、1880年)

シャルトル公ロベールの三男(第5子)としてパリに生まれる。母はロベールの従妹のフランソワーズ(ルイ=フィリップ1世の三男ジョアンヴィル公フランソワと、その妻でブラジル皇帝ペドロ1世の娘であるフランソワーズの長女)。全名はジャン・ピエール・クレマン・マリー(Jean Pierre Clément Marie)。

1899年、従妹にあたるイザベル(パリ伯フィリップとマリー=イザベル・ドルレアン夫妻の三女)と結婚した。

1926年オルレアン派のフランス王位請求者「フィリップ8世」であった従兄で義理の兄のオルレアン公フィリップ(イザベルの兄)が死去すると、ジャンが名目上のフランス王「ジャン3世フランス語: Jean III)」となった[1]。この王位請求は、「ジャック1世」とされた正統派(レジティミスト)のフランス王位請求者であるボルボン家のマドリード公ハイメと競合していた。

ジャンはアマチュアの歴史家かつ考古学者で、モロッコラバト近郊にある広大な農場で家族と暮らしていた。彼と長男アンリは1886年亡命法(フランス語版)によりフランスへの入国を禁じられていた[2]

1940年スペイン領モロッコララーチェで死去した。

子女

イザベルとの間に1男3女を儲けた。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ ルイ・ナポレオン・ミュラ(フランス語版)の孫、ジョアシャン・ミュラの玄孫。

出典

  1. ^ “Duke of Guise claims throne”. royalmusingsblogspotcom. 2018年1月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月28日閲覧。
  2. ^ Fenyvesi, Charles (1979). Splendor in Exile: The Ex-Majesties of Europe. New Republic Books. p. 123. ISBN 978-0915220557 

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、ギーズ公ジャンに関するカテゴリがあります。

先代
フィリップ8世
ブルボン=オルレアン家家長
フランス王位請求者
オルレアン派連合派
1926年 - 1940年
次代
アンリ6世
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • ISNI
  • VIAF
国立図書館
  • スペイン
  • フランス
  • BnF data
  • ドイツ
  • ベルギー
その他
  • IdRef