ジャン=エティエンヌ・リオタール
ジャン=エティエンヌ・リオタール Jean-Étienne Liotard | |
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自画像(c.1749) | |
誕生日 | 1702年12月22日 |
出生地 | スイス、ジュネーヴ |
死没年 | 1789年6月12日 |
死没地 | スイス、ジュネーヴ |
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ジャン=エティエンヌ・リオタール(Jean-Étienne Liotard、1702年12月22日 - 1789年6月12日)はスイスの画家である。
略歴
ジュネーヴで生まれた。父親は1685年に「フォンテーヌブローの勅令」が発令されたため、フランスからスイスに亡命したユグノー教徒の宝石商であった[1]。ジュネーヴの画家のDaniel Gardelleらに学んだ後、1723年から1736年の間はパリの歴史画家、ミニアチュール画家のマッセ(Jean-Baptiste Massé : 1687-1767)に学んだ。パステル画やミニアチュールを得意とした。1736年からイタリア、ギリシャ、コンスタンチノープルを旅し、コンスタンチノープルには、1738年から5年間滞在した。この間、後にヨーロッパで流行する「オリエンタリズム」の絵画の先駆けといえる作品を描いている。
1743年にウィーンに移り、有名な作品となった、『チョコレートを運ぶ娘』を製作した。ヴェネツィアに滞在した後、1745年から1846年はダルムシュタットで働き、1748年から1753年にはパリで多くの作品の注文に応えた。1753年にロンドンに行き、王太子、フレデリック・ルイス の肖像画を描いた。オランダで働き、アムステルダムで商人の娘と結婚した。1758年に再び、パリに滞在した後、ジュネーヴに戻り、その後の30年ほどは。ジュネーヴを拠点に、仕事の依頼を受けて、ウィーンやパリ、ロンドンへ旅する生活を続けた[2]。
晩年は同時代の画家、ジャン・シメオン・シャルダンの影響を受けて静物画も描くようになった。
作品
- タンバリンを持つトルコ女性 (1738/1743)
- 『チョコレートを運ぶ娘』(1744/1745)
- 『チョコレート注ぐ婦人』(1744)
- 若い婦人の肖像画
- トルコ衣装の婦人と召使 (1750)
- フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ) (1754)
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- 静物画 (1782)
脚注
参考文献
- Annette Geiger: Urbild und fotografischer Blick. Diderot, Chardin und die Vorgeschichte der Fotografie im 18. Jahrhundert. Wilhelm Fink Verlag, München 2004, ISBN 3-7705-3974-5.
- Rouven Pons: Jean-Étienne Liotard in Darmstadt (1745–1746). Über die Rezeption eines berühmten Künstlers in der Provinz. In: Zeitschrift für Kunstgeschichte, 2010 Heft 1, S. 41–66.
- Lexikon der Kunst. Band III. Westberlin 1981.
- Jean-Etienne Liotard. Genf 1702–1789. Sammlung des Musée d’Art et d’Histoire, Genf. Katalog zur Ausstellung im Kunsthaus Zürich, 16. Juni–24. September 1978.