サン・ヘロニモ通り

座標: 北緯40度24分59.6秒 西経3度41分55.27秒 / 北緯40.416556度 西経3.6986861度 / 40.416556; -3.6986861

プエルタ・デル・ソルを背景にした通り
地図
地図

サン・ヘロニモ通り西La Carrera de San Jerónimo)はマドリードの中心部にある通り。プエルタ・デル・ソルコルテス広場(スペイン語版)の間を通る道で、カミーノ・デル・ソル(太陽の道)と呼ばれた。

通りにはふたつの区画があり、プエルタ・デル・ソルの東側から出発し、アルカラ通り(スペイン語版)とほぼ並行してカナレハス広場(スペイン語版)サン・ヘロニモ・エル・レアル教会(スペイン語版)を通ってコルテス広場に至る。

歴史

最初の建物と下水道敷設の記録は1618年に遡る[1] 。これはパセオ・デル・プラド(スペイン語版)として知られる果樹園の反対側にあるヘロニモの修道院群で、最も古いものはプエルタ・デル・ソルにあるビクトリア修道院(スペイン語版)である。また、ここには1538年に設立されたサン・ペドロ・デ・ロス・イタリアーノス病院(スペイン語版)があり、イタリア人移民や旅行者のための施設とされている。通りの終わりに建っていた二つの建物、トッレシラ・デ・ラ・ムシカ(スペイン語版)と、ベルナルダス・デ・ラ・コンセプシオン女子修道院は、永代所有財産解放令の施行にともない解体された。また、当地にあったカフェは小説家のベニート・ペレス・ガルドスが作品「黄金の泉(スペイン語版)」のタイトルに使用したことで有名になった。ビクトリア通りの角にはホテル・エンバハドーレスがあり、その近くにホテル・ロシアがあった。

通りの入口

サン・ヘロニモ通り8番にあるレストラン「ラルディ」は、1839年にフランス人のエミリオ・ラルディによって設立された。これはマドリードで最初の最も古いレストランの一つとされている。1842年には同じ通りの30番にペストリー・ショップ「カサ・ミラ (店)(スペイン語版)」がオープンした。なお、エミリオ・ラルディにレストランを出すことを提案した作家のプロスペル・メリメも23番にレストランを出店したが繁栄しなかった。 通りの二番目の区画にはいくつかの住居やサンティアゴ侯爵、タマメス侯爵、ヴァルドエナ侯爵の家があった。また、24番には英国醸造所(スペイン語版)があったが、クイーン・ビクトリア劇場(スペイン語版)の建設にあたり、1910年頃に取り壊された。なお、その向かいにはカフェ・デ・ラ・イベリア(スペイン語版)があり、35番にはミラフローレス宮殿 (マドリード)(スペイン語版)がある。

著名な住人

当地の住人で、おそらく最も輝かしかった人物は、1778年から1779年まで、カンポリャノ侯爵夫人(marquesa de Campollano)の家に住んでいたフランシスコ・デ・ゴヤである[2][3][4]

脚注

  1. ^ Peñasco de la Puente & Cambronero 1889, p. 473.
  2. ^ [1] Consultado en agosto de 2014
  3. ^ Crono-biografía de Goya en el portal del Museo del Prado Consultado en agosto de 2014
  4. ^ Seseña 2004, p. 47-218.

参考文献

  • José Altabella (1978). Lhardy. Panorama histórico de un restaurante romántico (1839–1978). Imprenta Ideal 
  • Carlos Cambronero (1990). Las calles de Madrid. Noticias, tradiciones y curiosidades.. Fernando Plaza del Amo, S.L.. ISBN 978-84-87653-02-5 
  • Natacha Seseña (2004). Goya y las mujeres. Taurus. ISBN 843060507X 

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、サン・ヘロニモ通りに関連するカテゴリがあります。