サフダル・アリー・ハーン
サフダル・アリー・ハーン Safdar Ali Khan | |
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カルナータカ太守 | |
在位 | 1740年 - 1742年 |
戴冠式 | 1740年11月16日 |
別号 | ナワーブ |
出生 | 生年不詳 |
死去 | 1742年10月13日 アルコット |
子女 | サアーダトゥッラー・ハーン2世 |
王朝 | ナワーヤト朝 |
父親 | ドースト・アリー・ハーン |
宗教 | イスラーム教 |
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サフダル・アリー・ハーン(Safdar Ali Khan, 生年不詳 - 1742年10月13日)は、南インドのカルナータカ太守(在位:1740年 - 1742年)
生涯
1740年5月20日、カルナータカ太守である父ドースト・アリー・ハーンはマラーター軍との戦い(ダーマルチェルヴの戦い)に敗れて死亡し、息子であるサフダル・アリー・ハーンはヴェールールへと逃げた[1]。
しかし、サフダル・アリー・ハーンはカルナータカ太守の相続をめぐり、義理の兄弟チャンダー・サーヒブと対立することとなった。彼はマラーターのラグージー・ボーンスレーの支持を得ることに成功し、同年11月16日に太守として即位した[1][2]。
サフダル・アリー・ハーンはその治世、一連の混乱で不安定化した国家にあらゆる措置を取ったが、国を救うをことはできなかった。
1742年10月13日、サフダル・アリー・ハーンは義理の兄弟ムルタザー・アリー・ハーンに殺害された[2][3][4]。
脚注
参考文献
- 辛島昇『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』山川出版社、2007年。
関連項目
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ムガル帝国 | ズルフィカール・ハーン1692-1703 / ダーウード・ハーン・パンニー1703-1710 / サアーダトゥッラー・ハーン1710-1713 |
ナワーヤト朝 | サアーダトゥッラー・ハーン1713-1732 / ドースト・アリー・ハーン1732-1740 / サフダル・アリー・ハーン1740-1742 / サアーダトゥッラー・ハーン2世1742-1744 / チャンダー・サーヒブ1749-1752 |
アンワーリーヤ朝 | アンワールッディーン・ハーン1744-1749 / ムハンマド・アリー・ハーン1749-1795 / ウムダトゥル・ウマラー1795-1801 / アズィーム・ウッダウラ1801-1819 / アーザム・ジャー1819-1825 / グラーム・ムハンマド・ガウス・ハーン1825-1855 |
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