キャロライン・ラム

キャロライン・ラム

キャロライン・ラムCaroline Lamb1785年11月13日1828年1月16日)は、ウィリアム・ラム(のちの第2代メルバーン子爵)の夫人、小説家。父は第3代ベスバラ伯爵フレデリック・ポンソンビー。母は初代スペンサー伯爵ジョン・スペンサーの二女ヘンリエッタ。詩人バイロンとの不倫関係で知られる。[1]

略歴

第3代ベスバラ伯爵フレデリック・ポンソンビーの娘として生まれる。1805年に新進の政治家だったウィリアム・ラム(のちの第2代メルバーン子爵)と結婚、1807年に息子を、1809年に娘をもうけるが、息子は精神的な病を持ち29歳で死亡、娘は生まれてすぐに亡くなった。

1812年にバイロンと知り合い恋仲となるが、スキャンダルを嫌った夫によってアイルランドに送られる[1]。1813年にロンドンに戻るが、バイロンが他の女性と親しくしているのを見て、ワイングラスを割り、その破片で腕を切って自殺をはかる。同性愛の事実をキャロラインに公にされることを恐れたバイロンは1816年にイギリスを離れ[2]、キャロラインはバイロンを非難するために書いたゴシック小説『グレナヴォン』を発表する[3]。1825年にラムと離婚し、アルコールとアヘンチンキ中毒となり、1828年に死去した[1][4]

描かれた作品

  • 小説『ウィリアム・アシュの結婚』ハンフリー・ウォード、1905年[1]
  • 映画『レディ・カロライン』1973年

脚注

  1. ^ a b c Douglass, Paul (October 2004). Lady Caroline Lamb: A Biography. Palgrave Macmillan, 354 pp.. ISBN 1-4039-6605-2. https://archive.org/details/ladycarolinelamb00doug_0 
  2. ^ 細川美苗「メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』における男同士の絆」『松山大学論集』第19巻第6号、松山大学総合研究所、2008年2月、29-45頁、ISSN 09163298、NAID 110009814791。 
  3. ^ 神崎ゆかり、杉山洋子「The Handbook to Gothic Literature 邦訳『ゴシック入門:123の視点』増補」『大阪産業大学人間環境論集』第10巻、大阪産業大学、2011年、77-91頁、ISSN 13472135、NAID 110008605656。 
  4. ^ Cecil, David (18 October 2001). The Young Melbourne & Lord M. London, UK: Weidenfeld & Nicolson. pp. 566. ISBN 1-84212-497-8 

関連図書

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、キャロライン・ラムに関連するカテゴリがあります。
英語版ウィキソースにキャロライン・ラム著の原文があります。
  • 表示
  • 編集
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • FAST
  • ISNI
  • VIAF
  • WorldCat
国立図書館
  • フランス
  • BnF data
  • ドイツ
  • イスラエル
  • ベルギー
  • アメリカ
  • スウェーデン
  • 日本
  • オーストラリア
  • ギリシャ
  • オランダ
  • ポルトガル
芸術家
  • MusicBrainz
人物
  • ドイッチェ・ビオグラフィー
  • Trove(オーストラリア)
    • 1
その他
  • RISM
  • SNAC
  • IdRef