アルバ王国
アルバ王国またはアラパ王国(現代ゲール語表記:Alba、古ゲール語表記:Albu)は、6世紀ごろピクト人によって現在のスコットランド北部に成立したといわれる、スコットランド王国成立の母体となった政権である[1]。スコットランド・ゲール語では現在でも"Alba"がスコットランドを意味している。中世前期のスコットランドには、ウェールズからブリトン人が南西部に来住し、6世紀後半にはアングル人が東部ローランドに定着している[1]。
歴史
ブリテンの歴史 | |||||||||||
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アイルランド | イングランド | スコットランド | |||||||||
先史時代 | |||||||||||
ゲール人 | ブリタンニア | ピクト人 | |||||||||
オニール時代 | 七王国 | ダルリアダ | |||||||||
ノルマン朝イングランド王国 | アルバ王国 | ||||||||||
プランタジネット朝 (国名同上。アンジュー帝国とも) | |||||||||||
独立戦争 | |||||||||||
百年戦争 | |||||||||||
ステュアート朝 | |||||||||||
薔薇戦争 | |||||||||||
テューダー朝 | |||||||||||
アイルランド王国 | イングランド王国 | スコットランド王国 | |||||||||
(国名同上) | (国名同上) | (国名同上) | |||||||||
清教徒革命、政教分離 | |||||||||||
イングランド共和国 | |||||||||||
王政復古 | |||||||||||
ステュアート朝(復興) | |||||||||||
アイルランド王国 | イングランド王国 | スコットランド王国 | |||||||||
(国名同上) | 合同法(1707年) | ||||||||||
グレートブリテン王国 | |||||||||||
ハノーヴァー朝 | |||||||||||
(国名同上) | (国名同上) | ||||||||||
合同法(1800年) | |||||||||||
グレートブリテン及びアイルランド連合王国 | |||||||||||
サクス=コバーグ=ゴータ朝、ウィンザー朝 | |||||||||||
(国名同上) | |||||||||||
英愛条約 | |||||||||||
アイルランド自由国 | イギリス | ||||||||||
アイルランド憲法公布による改名 | |||||||||||
アイルランド | |||||||||||
関連項目:イギリスの歴史、ウェールズの歴史 | |||||||||||
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9世紀にスコット人が先住のピクト人を統合してアルバ王国を建設したといわれている[1]。すなわち、843年にダルリアダ国王であったケネス・マカルピンがケネス1世と称してアルバ王国と合併したと伝えられている[1]。これについては、ケネス・マカルピンによってアルバ(アラパ)王国が征服されたともいわれるが定かでなく、婚姻によって統合されたとする説、アルバ(アラパ)王国がダルリアダ王国を征服して統一されたとする説などがあり、統一された見解は未だみられない。いずれにせよ両国は合併し、アルバ(アラパ)王国を名乗り、東岸地域のスクーンに首都がおかれた。
11世紀、ダンカン1世が4部族を統合して南のストラスクライド王国(英語版)を組み込み、北部を除くスコットランド全域を影響下においた。このころからアルバ(アラパ)はスコーシア王国、やがてスコットランド王国と呼ばれるようになった[1]。ダンカン1世よりマクベスを経て、マルカム3世が継承したのはケルト的な社会であった[1][注釈 1]。キリスト教会もまた、ケルト的な教会方式を多分に踏襲していた[1]。
北方のオークニー諸島、ケイスネス、サザランドは依然ヴァイキング系ノース人の勢力に支配されており、これをスコットランド王家が包含するのは15世紀のことになる。
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
- 『アルバ王国』 - コトバンク